博士77
 さて、今回は経済について考えて行きたいと思う。まず経済とは何か?から。ズバリこれは人間が衣食住などを得るための活動を言う。つきつめると生きていくために必要な「食」を得るためのこと。衣や住などは無くても生きてはいけるが、「食」と水がなければおよそ2週間で乾燥し、衰弱して死ぬ。健常者でこれだから既往症があったり子どもや高齢者はもっとずっと早く死んでしまう。「食」は欠かすことのできないものだ。

 クルマや家電などを生産する全ての産業も概ね「食」を得るための活動の一環として存在している。また生産された道具もまた概ね「食」を得るために使われる。銃があれば狩猟ができて「食」が得られるし、余りよろしくはないがその銃口を人に向ければ何でも差し出してくる。死にたくないからだ。この辺りは後述するとして、働くために食べているのか、食べるために働くのかはよく判らないが「食」は生きる上で必須の要素であることは間違いなかろう。この辺りは後述する。

 よく似た言葉に経世済民があり、これを短縮したものが経済だとする説もあるが「世を経(治)めて、民の苦しみを済(救う)」つまり、政治のことを言うが本命だ。「食」を得る為には食物をつくるか?買うか?それとも貰うか奪うしかない。

 太古の昔、人間が木の実や果実を採って暮らしていた頃は、経済なんてものは存在しなかった。しかし、狩猟に活路を見出し、農耕を覚えるとその成果物の売買や争奪が始まり、売買に必要な「モノを通貨とする」と何となく(笑)決まってからは、争奪の対象に通貨や価値のある物質も加わって来る。それらを手に入れて売却すれば「食」が得られるから。物質には、希少元素やエネルギーを産生する燃料や穀物を産出するための国土、そして海産物がとれる領海などから産業で創り出される製品も含まれる。売りものを売価より安くつくったり調達してその差額を収益としている。

 消費者にとって一番都合がいいモノやサービスを提供する者が勝ち、そうでないものは敗退し消えていくことになる。例えば、キャリアを必要とせず世界中と繋がり、月度の通話料がなく、充電も必要ない小型の通信手段を五千円くらいでリリースしたら、全てのスマホメーカーやキャリアは数カ月で左前になっていく。東京大阪間を15分で結びその運賃が五千円ほどの移動手段が提供されたならJR東海など交通機関は即死する。海水をそのまま使う発電方法が登場したならアラブ諸国は貧困国まっしぐら、どんな病気も簡単に完治させる治療法が開発されたら医薬業界や従事者は患者ではなく自分達が生きることを考えなければならぬ。偶々というか幸いというか現時点では科学技術が未発達ゆえにそのようなモノやサービスはないので覇権を競い、日夜シェアの争奪に明け暮れている。

 さて、銃口を向けられたら不承不承ながらも金品を差し出す。それは撃たれたら痛そうであり(笑)、生きていたいから、もしくは死にたくないからだが、どうせ数十年もすれば誰もが100%死ぬのであって、早いか遅いかであるのに何故なのか?痛たそうだからではない。「治る怪我は痛い」が致命傷の場合は案外苦痛はない(らしい)筆者は仕事柄、銃撃されたりして瀕死の人を何人も見て来たが意外と安らかな顔をしていた。

 そして、これは南アメリカ、アンデス辺りで奴隷として暮らしていた人達が答を出している。奴隷を買った大農場主(プランター)は豪奢な生活を営み乍らも、老いや刻々と近づく寿命にどこか怯えている。築いた富や名声、権力も死を以て全て放棄しなければならないからである。一方、奴隷達は毎日がそれこそ地獄の形相であり、自由が無く過酷な労働を強いられる。そして、そこから唯一脱出できるイベントが死である。失うものは命だけ。信仰する神の御許に召される死期を半ば楽しみに生きていた。なので今以上に過酷な労働条件が示されれば簡単に自害してしまう。それに手を焼いたプランターは年に一度、収穫を終えたタイミングで無礼講のイベントをつくり、その数日間は「やりたい放題、飲み食いし放題」の祭りをつくって奴隷たちに生きる喜びを見出させた。それが謝肉祭(カーナバル)として今でも残っている。そうなると奴隷も来年のカーナバルが待ち遠しくそれまでは大人しく働くようになった。わけてもリオ(ジャネイロ)のカーナバルは世界的なイベントにまでなっている。筆者も何度か行っているがほぼ三日間、昼夜をわかたず踊り狂い飲み食べる、凄まじいものだ。

 閑話休題、食べて育って家族をつくり子孫を残す。多くの動物に共通することである。つまり「死にたくない」は本能として備わっている機能ということができる。本能とは脳の深部に刻み込まれたものであるから抗えない、なんとかして生きようとし、どうせならいい暮らしをしたいと願う。そのために地球上に限られて存在する富や物質の争奪に何らかのカタチで参画する。それが経済の営みの核心であり実態である。

 そうした喧噪が届かない、人里離れた臨界集落で自分が食べるだけの耕作を行い、小規模の家畜を飼育し食べていくことができれば、世の中がどんな経済状態であろうが関係ない。晴耕雨読、悠々自適の生活が送れる。後期高齢者の年齢を迎えた筆者はそれを実践しようとしている。他国が侵略してきてもそんな生産性のない山里などは侵略する価値はなく、一発数億円する戦略核は勿体なくて使えない。でも情報の受発信はネット経由で問題無く行えるし、やりたい仕事ができ、そうでもなさそうな仕事は敬遠できる。こんな自由は無い。司法に身を置いていた公務員として、退職後は半官半民の財団の理事長として粉骨砕身でやってきたつもりであるが、晩年の老人にとってのユートピアに見える。そうした暮らしに思いを巡らしその準備をしているところ、読者の方々も病気や事故で早逝しなければ、子は育ち夫婦なり独居でのそうした暮らしができる条件が揃う。「食」はそのときのために、病気や要介護状態にならないための自分への投資でもあり、必要なモノやサービスを買うための資金と共に持ち防衛していくことだ。

 以上をまとめるに本稿の趣旨は、此度のウクライナをしてNATO諸国及び米国の代理戦争が惹起する世界情勢の緊迫もまたロシア及び指導者の矜恃と並び、世界有数の穀倉地帯でもあるウクライナを手中に収めたいという刹那の思いが背後にあって、取りも直さず「食」の争奪であり、過剰に発行された通貨の破綻も間近となった複雑な経済の枠組みあるいは呪縛から離脱することが個人としてできるとすれば上述したことで可能に思えるとして紹介してみた次第である。「三十六計逃げるに如かず」「逃げるが勝ち」という故事成句もある。